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短刀 松崎直宗作(武蔵)(大慶直胤の実子)
文政十二年秋
tantou [matsuzaki naomune](child of taikei naotane)

日刀保 保存刀剣 NBTHK Hozon
品番:1110-3031
短刀小さ刀拵付き 白鞘入り
刃長 Blade length(HA-CHOU)
22.1cm(九寸三分)
反り Curvature(SORI)
0cm
元幅 Width at the hamachi(MOTO-HABA)
2.59cm
元重 Thickness at the Moto Kasane
0.60cm
生ぶ
国 Country(KUNI)・時代 Period(JIDAI)
武蔵国江戸ー遠江国浜松(musashi edo-thotoumi hamamatsu)・江戸時代後期 The Edo era latter period. 文政十二年 1829年
登録
高知 昭和47年11月7日
鑑定書
財団法人 日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書  平成二十三年二月二十五日
【コメント】
松崎直宗は大慶直胤の門人とされていましたが、近年に実子であることが判明しました。二代直胤と言えなくもありません。

「刀剣美術 平成十五(2003年)年十月号 第五六一号」に「荘司直胤の実子、「松崎直宗」について」-山形藩主水野氏の新史料による-として9ページから10ページに紹介されていますので以下引用させていただきます。

以下刀剣美術 第五六一号の2ページから10ページを引用

       「荘司直胤の実子、「松崎直宗」について
        -山形藩主水野氏の新史料による-
                  武田 喜八郎

  一、はじめに
  荘司直胤は、わが山形鍛冶町出身の名工である。江戸末期の新々刀期の巨匠水心子正秀の門に入り、師正秀と共に山形藩主秋元永朝のお抱え刀工となり、その技倆は師をしのぐほどの名声を博し、多くの名刀を世に遺したことは、全国的に知られていることである。
  だがその実子となると、従来は女子のみで、養嗣子の次郎太郎直勝の妻や、水心子正次(水心子正秀の孫)の妻などが知られているに過ぎなかった。
  ところが最近になって、直胤には不肖の子というべき息子(松崎直宗)がいた事実が、後出の新史料によって判明したのである。
  去る昭和六十三年三月頃、東京都立大学付属図書館が所蔵する「水野家文書」の内、山形藩主水野氏の家臣団の略歴を記した『庶士伝後編』(第1図)の全文(全十四冊)を、同館のご好意を得て、モノクロのフィルム(三十六枚撮り)三十六本に収めることができた。
  その後、『山形市史資料』の第71号~第73号に、右の『庶士伝後編』の全文を収録して公刊した際、その編集・校正中に、偶然にも「松崎早太直宗」という水野氏の家臣が、同書の巻十二に「庄司箕兵衛二子」と書かれている記事(後出、第4図)を見出し、私は頗る瞳目し、一驚したのであった。
  この早太直宗は、幼い頃から刀工となるのを嫌った不肖の子だったためか、早く他家へ養子に出されてしまったのかもしれない。とにかく早太直宗は、既に少年時代の文政四年(一八二一)八月には、浜松藩主水野忠邦の家臣松崎重左衛門の養子となっていた事実が、右の史料によって判明したのである。
  しかるに、この松崎直宗については、従来から荘司直胤の門人とされてきた刀工で、安政四年(一八五七)に刊行された『新刀銘集録』(森岡南海朝尊著)には、直胤門人の系譜に連なり、実子とする形跡は全く見当たらず、以後の刀剣書、川口陟発行の『刀工総覧』をはじめ、藤代義雄著の『日本刀工辞典 新刀編』、飯村嘉章著の『新々刀大鑑』、石井昌国著の『日本刀銘鑑』などでも、後出の如く「直胤門、山形住、京橋住、文政・弘化頃(または弘化頃)」とあって、直宗は直胤の一門人に過ぎず、さらに「山形住」や、「文政・弘化頃」とする誤りをおかしているのであった。
  右の『庶士伝後編』巻十二に、後出(第4図参照)の如く松崎直宗の死没は、「弘化元年二月十九日死」(注・弘化は天保十五年<一八四四>十二月二日に改元)とあるから、この当時の水野家は、まだ浜松藩主水野忠邦の時代であった。しかし忠邦は、まもなく老中時代の失政をとがめられて、翌二年九月減石(二万石)され、蟄居・謹慎を命ぜられていた。次いで十一月晦日、忠邦の嫡子忠精が、浜松から山形(五万石)へ転封を命ぜられているから、既に故人となっていた直宗は、父直胤の故郷山形の地を踏んではおらず、彼の居住地は浜松か江戸とすべきであると思う。
  以下、従来の諸資料を参考としながら、『庶士伝後編』所収の「松崎早太直宗」の記載事項の内容を明らかにして、これまで直胤の弟子とされてきた直宗の無念(?)さを除去し、直胤の実子説を明確にしていきたいと思う。

  二、松崎直宗に関する従来の諸資料
  天保頃の刀工と思われる松崎直宗の名が、幕末当時の刀剣古書に現われてくるのは、前にも触れた如く、『新刀銘集録』(安政四年三月刊)や、『校正古今鍛冶銘早見出』(安政三年刊)の「追加分」が初めであると思う。すなわち、右の『鍛冶銘早見出』の「追加分」(第2図)には、「直宗、松崎隼太、山形冶工、文政・弘化、京橋住」と記されている。また、『新刀銘集録』の巻之二の「荘司氏系図」には次の如く記している。

  なお、同書の「中心之部」(巻五~巻九)には、直胤や直胤の弟子となった水心子正次の押形(第3図)が数点収録されているのに、直勝や直宗の押形は全く載せられていないのは、どうしたことだろうか。
  次に、近現代に入って、右の『鍛冶銘早見出』(以下同じ)に拠ったと記している『大日本人名辞書』(明治十九年四月初版)や、現代までの主な刀剣諸書を掲げて、松崎直宗の記載事項を見ていきたい。
  (1)大増補『大日本人名辞書』
       明治19・4初版、大正10・11増訂九版東京経済雑誌社刊
     ナホムネ 直宗
       松崎隼太と称す。出羽山形藩の刀匠にして、江戸京橋に住す。文政・弘化年間の人なり(古今鍛冶銘早見出)。
  (2)『刀工総覧』
       本阿弥光遜・室津鯨太郎著、川口陟発行大正7・4刊
     直宗(九人)
     △松崎隼太、山形冶工、京橋住、直胤門、文政・弘化。
  (3)改訂『日本刀工辞典 新刀編』
       藤代義雄著、昭和19・4刊
     ◇直宗 松崎(弘化-羽前)、新々刀、中上作、松崎隼太と称す。大慶直胤弟子、作柄直胤の如き逆丁字が多い。
     (刻銘)「松崎隼太直宗」
  (4)改訂『刀工総覧』
       昭和四十四年度版、川口陟著、飯田一雄校訂、刀剣春秋新聞社発行
     直宗(古刀六人、新刀四人)
     △直宗 松崎隼太、山形冶工、京橋住、直胤門、弘化頃。
  (5)『新々刀大鑑』
       飯村嘉章著、昭和41・11初版、同54・8再版
     直宗(弘化)、松崎隼太直宗、山形冶工、江戸京橋住、直胤門。
  (6)『日本刀名鑑』
       石井昌国著、昭和50・4刊
     □「松崎隼太直宗」、大慶直胤門、山形生、京橋住、弘化ころ、武蔵(銘録・辞典・新々)。
  以上の諸資料に見る如く、いずれも『鍛冶銘早見出』や『新刀銘集録』、及び『大日本人名辞書』(大増補)の記事に基づいた記載法である。いずれも「隼太」と記しているが、「早太」の誤りである。また、(1)(2)は「文政・弘化」頃としているが、(3)から(6)までは、「弘化」頃と記している。
  すなわち、従来の説を集約すると、松崎直宗は直胤の門人で、「山形冶工」(または山形住)、京橋住、文政・弘化(または弘化頃)としているのである。ただ藤代の(3)「新刀編」では、直宗の作柄に及んで、「直胤の如き逆丁字が多い」として、刻銘まで掲げているが、その押形を掲載していないのは残念である。

  三、『庶士伝後編』中の松崎直宗と養父について
  最近まで小生は、これら先学の諸刀剣書に学んで、松崎直宗は直胤の一門人と認識していたのであったが、山形藩の公式記録である『庶士伝後編』の「松崎早太直宗」の記事(巻十二)を見て、直胤には男の実子がいたことを初めて知らされたのであった。
  この『庶士伝後編』は、嘉永二年(一八四九)に、山形藩主水野忠精の命によって、老臣の関善左衛門以下が編纂に当たり、安政三年(一八五六)三月に完成したものである。さらに、その後の元治・慶応頃まで書き継いでいる個所が多いから、廃藩まで追記されたことがわかる。
  全十四冊に収録された家臣の家数は、士分格以上(足軽は除く)の家臣団三二四家で、各家の代々の石高、役職の任免、賞罰、その他の経歴が書かれており、宝暦以前に編纂された『庶士伝考異』(全十一巻)に続く「後編」として、全十四巻から成っている。内容の年代は、当初は宝暦(一七五一~六三)から安政頃(一八五四~五九)まで書かれ、さらにその後、元治・慶応(~一八六七)頃まで書き継いでいる分も見られるから、水野藩士(士分格以上)の根本史料として貴重な存在である。
  まず、同後編の巻十二の「松崎直宗」の記事(第4図参照)を、左に全文紹介する(『山形市史資料』第73号、一三二頁)。
  松崎早太直宗
  一、秋元左衛門佐士庄司箕兵衛二子、文政四年辛巳八月廿四日、重左衛門か養子、六年癸未二月廿九日歩士、六両二口、九年丙戌九月五日、大坂天満十町目町家ニおゐて、不体説により武家勤仕を構暇、江戸・京・大坂及封内徘徊を禁、天保八年丁酉十二月九日、刀鍛冶職業柄を以、門出入を免、九年戊戌九月八日、業体を以帰参、歩士、弘化元年甲辰二月十九日死
    注、( )内の傍書及び読点等は筆者が付けた。以下同じ。
  次に、直宗と関連するので、養父松崎重左衛門の記事も参考までに掲出してみる。
  松崎重左衛門
  一、文化二年乙丑七月七日、歩士より下立、増一口、七年庚午三月十七日中扈従、増二両、八年辛未閏二月晦日歩士組頭、五十苞ニ直、六年癸未五月十一日、依願小普請入、八両三口、文政九年丙戌九月七日、子早太暇ニより差控、天保元年庚寅閏三月廿五日、早太事暇之身分、門出入をいたす不埒により閉門、四月廿五日死
  以上の新史料によって、直宗の父荘司直胤が、山形藩主秋元永朝の抱え工として、江戸に居住していた頃の文政四年八月二十四日、実子の直宗は、なぜか他藩の浜松藩水野氏の家臣松崎重左衛門の養子となっていたことが判明したのである。
  この間の事情は明らかではないが、師の水心子正秀や、正秀の友人で水野家中の柘植平助と相談してのことと思われる。直胤は、既に自分の後継者は、直宗よりも年長で技倆も勝れた娘聟の次郎太郎直勝と決めていたらしく思われるし、刀工を好まぬ不肖の子である早太直宗を、文政四年八月に、他藩の家臣松崎家へ養子に出してしまったのかも知れない。
  文政四年当時の直胤は、四十三歳の壮年であり、養子の直勝は十七歳、直宗の年齢は不明だが、まだ元服前の十三、四歳位であったと推定される。
  水野氏の家臣となった直宗は、文政六年(一八ニ三)二月二十九日に歩士となり、六両ニ口を給せられているが、この時、直宗は十五歳の元服が済んでいたと思われる。因みに、直宗の子寅松も、安政五年(一八五八)十一月二十六日、元服後の十六歳で歩士となっている。
  ところが右の史料によると、早太直宗は文政九年(一八ニ六)九月五日、大坂天満十丁目の町家において、武士にあるまじき不祥事の行為をやったということで、藩から武家勤仕を構え暇となり、さらに江戸・京都・大坂及び浜松領内での徘徊を禁じられてしまった。十八、九歳頃の血気にはやる青少年の直宗は、大坂の町家でどんな「不体説」な悪行をやったのだろうか。酒食の上の犯行か、盗みか傷害か、具体的にはわからないが、同時に養父の重左衛門も、二日後の九月七日付で、「子早太暇ニより、差控」えを命じられているから、直宗はかなりの悪行をやってしまったのであろう。直宗は、いわゆる不良の青少年であったと推測される。
  ところで、直宗の大坂滞在については理由があったのである。すなわち、藩主水野忠邦は文政八年(一八ニ五)五月十五日から翌九年十一月二十三日まで、大坂城代を命ぜられていた時期であった。直宗も多くの家臣たちと共に、藩主忠邦に従って大坂在番の任務に当たっていたと思われる。と同時に、水野家に於いても、大坂の町家へ対する家臣の不調法、不正な行跡は厳しく罰していたことがわかる。
  かくて直宗は、文政九年九月五日以降は藩から追放され、江戸はもちろん、京都・大坂及び浜松領内を徘徊・遊歴することを禁じられてしまった。しかし、時々は実父直胤の江戸屋敷や、浜松の養父の屋敷へ出入りしていたらしく、四年後の天保元年(一八三〇・文政十三年)閏三月二十五日に、前記の如く養父の重左衛門は、「早太事暇之身分、門出入をいたす不埒」により、閉門を仰せ付けられてしまった。しかも重左衛門は、その一カ月後の四月二十五日に、俄かに死亡しているのはなぜだろうか。恐らく、養子直宗への諫死ではなかったかと推察したい。
  その後、天保八年(一八三七)までの直宗の行動は、記載がないので不明であるが、彼は、養父の急死によって一念発起したらしく、実父の直胤に就いて、刀工としての技術を磨いていたのかも知れない。直胤の遠州浜松打ちの作刀は、天保三年正月(第5図)から、三月にかけて見られる(『新々刀大鑑』巻之一)のも、何か理由があったと思われる。私は、実子直宗への指導と関係があったと考えたい。
  とにかく、直宗の本格的な鍛刀修行は、この時期(天保三年前後)からだったと推測される。その成果によってか、彼は天保八年十二月九日、「刀鍛冶職業柄を以、門出入を免」ぜられ、さらに翌九年九月八日には、「業体を以、帰参」とあるように、刀工としての水野家への帰参が許され、元の如く「歩士」に取り立てられ、お抱え刀工に準ずる待遇を受けたのであった。改心した直宗には親の七光りが大きく左右されたと思われる。
  後掲の直宗作の押形第6図は、天保八年十二月九日に、門出入を許される直前の作刀で、「天保八年十月日」の年紀があり、表銘には、「松崎早太藤原直宗作之」とあるから、その頃に父直胤から、「藤原」姓を名乗ることを許されていたことがわかる。第7図の押形は、直宗が門出入を許されていた頃の、天保九年(一八三八)五月(仲夏)の作刀であった。不肖の子の精進ぶりに、直胤もようやく安堵したことであろう。
  ところが、それから六年後の天保十五年二月十九日、直宗は業半ばにして、実父直胤よりも早く、三十六、七歳の若さで没してしまた。直胤の落胆ぶりが推測されるようである。
  この時、直宗の遺子寅松は、僅かに二歳(天保十四年生)であった。
  直宗の跡式は、間もなく同年四月二十日、幼い寅松が継ぎ、六両ニ口、小普請役を命ぜられた。以下、関連するので寅松の記事(第4図参照)も掲出しておきたい。
  松崎寅松
  一、直宗子、弘化元年甲辰四月廿日、六両ニ口、小普請、四年丁未九月三日、山形へ移と命す、嘉永元年戊申四月十九日、依願滞府、安政五年戊午十一月廿六日十六歳、歩士、居を江戸ニ定む、万延元年庚申正月十一日次番、下立列、増一口、十月廿一日、御法事認物ニより金百五十疋、十一月朔右筆、御書方、文久元年辛酉十二月廿四日、右筆を免し下立、是迄精勤ヲ以銀五両、二年壬戌十一月廿六日鍵番、中之口番兼、衣料如並
  水野家が浜松から山形(五万石)へ左遷・転封されたのは、弘化二年(一八四五)十一月であった。浜松から山形への移動は、雪解けを待って翌三年五月に行われたが、幼い寅松や直宗の妻たちは、引き続き江戸藩邸に居住したらしい。その後、同四年九月三日に、寅松は江戸から山形への移住を命じられていたが、再三の願いにより、翌嘉永元年四月十九日、江戸滞府を許されている。
  寅松が十六歳となった安政五年十一月二十六日、彼は歩士に取り立てられ、居所も江戸と定められた。したがって寅松とその家族たちは江戸に常住し祖父直胤の故郷である山形の地を、一度も踏まずに明治維新を迎えたと思われる。
  寅松は、万延元年(一八六〇・安政七年)正月十一日、次番となり、下立列に昇格し、一口(一人扶持)を増俸された。同年十一月朔日、右筆となり御書方役を勤めたが、文久元年(一八六一)十二月二十四日、右筆を免ぜられて「下立」に昇進し、これ迄の精勤の故を以て、銀五両を給与されている。同二年十一月二十六日、鍵番となり、中之口番を兼務してその精励ぶりが認められていた。したがって寅松は、父直宗の刀工の道から大きくはなれて、右筆(書役)となり、下立(士分)にまで昇進したのであった。
  前記の如く松崎寅松は、江戸詰め衆であったから、明治維新後も引き続き東京に在住したと思われ、明治初年以降に山形への転住は考えられず、かつ諸史料でも確認することができないから、その子孫は今も東京都内に居住している可能性が高いと思われる。しかし、現在ではその子孫を探す手掛かりは全く得られないのが残念である。松崎直宗の作刀やその子孫について、識者の御教示を切にお願いする次第である。

  四、松崎直宗の作刀
  以上、『庶士伝後編』の記載せる新史料によって、直胤の実子松崎直宗の存在、及び養父松崎重左衛門、直宗の遺子寅松についても略述してきたが、松崎直宗作の刀剣は、山形市在住の水野氏の旧士族の家からも、また山形市内や県内でも、まだ一本も発見されていない。
  しかるに近年、幸いにも直宗作刀について、刀剣博物館の田野辺道宏先生の御世話によって、同館の岩田隆先生が採択された押形二点(第6図・7図)を御提供いただいたので、その御好意に甘え、以下、それにより直宗作の刀を紹介していきたい。
  直宗の刀銘には、次の如く「隼太直宗」ではなく、「早太直宗」とある。藤代義雄著の『刀工辞典 新刀編』には、刻銘は「松崎隼太直宗」と記しているが、その押形を収めていないから、「隼太直宗」銘の真作が発見されない限り信用することはできないといえよう。さて、第6図・7図の刀の年紀に、天保八・九年とあるから、この時、直宗は三十歳か三十一歳であったと思われる。
  第6図・7図に見るが如く、表裏共に温和で落ち着いた銘振りとなっている。この銘振りからは、かつての大坂町家での「不体説」の所業をして、藩から追放された同じ人物とはとても思われないし、謹直で温和な人物が想像できるようである。この頃の直宗は、前非を悔いて刀工としての歩みも着実なものになり、日々の生活も落ち着いていたことを物語っている銘振りである。
  しかるに、好事魔多しで、直宗は六年後の天保十五年二月十九日、三十六、七歳(推定)で、実父直胤よりも早く急逝するのであった。
  岩田先生は、彼の作刀(第6図・7図)を実見されて、その特徴などを調書に細かに書かれている。大変参考となるので、同先生の御快諾を得て全文を次に掲載し、直宗と父直胤との作刀の近似を、紹介させていただくことにしたい。

  [刀銘 松崎早太藤原直宗作 天保八年十月日]

  「刃長ニ尺二寸五分半、反り七分、鎬造、庵棟、細身で、元幅に比して先幅狭まり、重ね厚く、反り深く、小鋒。鍛えは小板目肌よくつみ、地沸微塵に厚くつく。刃文は互の目に角ばる刃、片落風・丁子・尖りごころの刃など交じり、処々逆がかり、足長くよく入り、部分的に逆足を交え、匂い勝ちに小沸むらにつき、処々しまりごころとなり、砂流しかかり、金筋・沸筋長くかかる。帽子は小さく乱れ込み、先尖りごころに丸く、やや深く返り、少しく掃きかける。彫物、表に棒樋、裏の二筋樋を共に掻き流す。茎、棟丸、刃方丸、先栗尻、目釘孔一、鑢目化粧に大筋違。直胤の長船景光・兼光写しによく似ている。直胤のこの手の作域は、姿までも古調の太刀姿に造り込むのが常であるが、この直宗の作も同様である。焼刃は互の目を主調に角ばる刃、片落風の刃等を交えるなどの刃取りを見せ、匂い勝ちに小沸がむらづき、長く金筋・沸筋がかかっている。直胤の作に比して、刃の形が不揃いであるが、そこに直宗の技倆と見どころが窺えて興趣がある。」

  「刀銘 松崎早太源直宗作之 天保九年仲夏
  刃長ニ尺三寸三分半、反り七分半、鎬造、庵棟、元幅に比して先幅狭まり、反り深く、細身で中鋒つまる。鍛えは板目つみ、処々杢交じり、地沸つき、地景風の変わりがね交じる。刃文は腰元ニ、三寸程焼幅が狭く、徐々に焼幅を広め、頭の丸い互の目乱れに足長く、葉入り、総体に逆がかり、沸つき、処々荒めの沸交じり、砂流しかかり、特に物打辺に砂流し・沸強く、総体にうるみごころとなる。帽子不詳。彫物、表裏に棒樋と添樋を丸留にする。茎、棟丸、刃方丸、先栗尻、目釘孔一、鑢目、化粧に筋違。細身で反り深く、中鋒のつまった造込みと焼刃から、一見して、長船景光・兼光などを写したものと想われる作である。互の目形や足入りの状態、逆がかる調子やうるむ点、茎の形状、鑢目・銘のきり方など、全てが直胤に近似している。」
  以上で、直胤と直宗の実作刀での近似点が理解できると思う。

  五、むすび
  直宗の刀工としての実年代は、以上によって天保八年から同十五年二月迄の数年間としてよいと思われるが、前出の川口陟発行の『刀工総覧』では「文政・弘化」としているのは、いただけないことである。因みに、文政十三年八月刊の『古今鍛冶備考』巻七に増補された押形を見ても、川部(水心子)正次や荘司直勝その他、直胤門人の刀工ら数名の文政十二・三年銘の作刀の押形が収録されているのに、松崎直宗のものは一点も見られないのである。
  ところで最近、次の銘文がある直宗と称する作刀が、二点発見されている。
  (1)浜松臣松崎早太直宗 弘化二年乙巳二月日
  (2)浜松臣松崎早太直宗 弘化二年乙巳八月日
  驚くことに、いずれも「浜松臣」とあり、かつ「早太」の早の字は となり、田と十の字が続いて早とは読めないものである。しかも、いずれも年紀が直宗の没後の二年目に当たっているのも誠に不思議である。『鍛冶早見出』の「追加分」に、「松崎隼太、山形冶工、文政・弘化、京橋住」とあるので、その後の近現代の刀剣諸書には、「松崎隼太直宗、山形冶工、京橋住、直胤門、弘化頃」と大同小異に記述されているが、直宗は「山形冶工」ではなく、正しくは「浜松冶工」となすべきであり、「直胤門」から更に進んで、直胤の実子と訂正すべきであると思う。
  右の(1)(2)の二点の刀剣には、「浜松臣」と刻しているのはよいが、早の字を と書いているのは異様である。直宗の真作である第6図・7図の押形には、「松崎早太藤原直宗作之」、「松崎早太源直宗作之」と、早の字は正しく書いているのである。
  また、(1)(2)の銘振りを見ると、第6図・7図の銘振りとは大いに異なっている。偽作というのは簡単であるが、私は、従来の常識にない「浜松臣」の刻銘が、どうしても気にかかるのである。しかも、その作刀の年紀が、直宗の没後の翌年であるのも、大いに気にかかることである。これらの疑問点は、今後の研究課題として、今は結論を急がずにしておきたいと思う。
  以上のことから、私は次のことを明確にしたつもりである。
  一、松崎直宗は、直胤の実子であること。
  二、若くして浜松藩水野氏の家臣松崎重左衛門の養子となったこと。
  三、不肖の子であったが、天保三年頃から実父直胤から鍛刀の指導を受けたこと。
  四、天保十五年二月十九日に没したこと。
  五、直宗の作刀期は「文政・弘化」ではなく、「天保八年より天保十五年二月迄の数年間」とすべきこと。
  六、水野氏が浜松から山形へ左遷・転封されたのは、弘化二年十一月であるから、刀剣諸書が「山形冶工」と記しているのは、全くの誤りで、正しくは「浜松冶工」と記すべきこと。
  最後に、この小論を成すに当たり、種々御指導をいただいた田野辺道宏学芸部長、また貴重な直宗の押形の御提供と御教示をいただいた岩田隆先生、ならびに飯村嘉章先生に、深く感謝の意を表して筆を擱きます。
(たけだきはちろう・山形支部副支部長、兼事務局長)

以上、刀剣美術 第五六一号の2ページから10ページを引用。
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